70 歳の T 氏はだれが見ても若々しく、とても第一線を退いた「ご隠居」とは思えません。
公職だけでも両手に余るぐらい引き受けていたほどですから対外的な信用も相当なものでした。 彼は 2 年前まで地方では名のある建材メーカーの経営者でしたが、協同組合への債務保証が引金になり危うく連鎖倒産寸前まで追い込まれました。 幸い得意先からの支援により大事には至りませんでしたが、一族の大株主から厳しい責任追及を受け退任を余儀なくされます。
後釜に納まったのは彼の竹馬の友のはずだった従兄弟でした。 T 氏のがっくり肩を落とした姿は直視できず得意先や銀行も「ほとぽりが冷めるまでの我慢」と一時しのぎの慰めを言うしかなかったとか。 T 氏は、工場の部品倉庫の片隅に「会長室」を設え週に一度の出社を励行し始めます。 社員との交流や幹部への何気ないフォローアップを疎かにしない姿勢は彼流の深謀遠慮でした。
引き受けていた「公職」を献身的に勤めたことも外に向けての「人的ネットワーク作り」を意図したものでした。 やがて、地方都市特有の張り巡らせた「情報網」に「飛んで火にいる夏の虫」さながら、新社長のご乱行が次々と発覚したのです。
町一番の料亭の若女将と徒ならぬ関係ができたとか、海外出張にその女性を同伴したとか、尾ひれの付いた情報が飛び交いました。かつて T 氏を引きずり下ろしたはずの一族郎党までもが眉をひそめ事態を見守るようになったのです。
返り咲きを果たす創業者
T 氏は 2 期目に入る取締役会の席上、従兄弟の再任拒否動議を提出。 一族は多数決をもって採択し、見事、社長に返り咲いたのです。
T 氏復活のお膳立ては公職という「外交的手段」の活用と地味道な「情報活動」でした。 とはいえ、彼一流の権謀術数をいかんなく発揮できたのは地方特有のドロドロした地縁・血縁的な構造を上手に使いこなした結果だったともいえます。
今も歌舞伎の定番になっている「伊達騒動」や「鍋島騒動」なども殿様の廃立をめぐるお家騒動劇です。 下克上の時代では大名の地位を追われた者が手練手管を使って復権を企む政治的なものカ多かったようです。 江戸時代になると家臣が「浪費専門の殿様」を引き摺り下ろし官僚にとって都合のいい「よきに計らえ殿様」に挿げ替えようとした騒動が増えます。
さしずめ T 氏の返り咲きも元大名が失地回復のために「城下町」に隠密を放ち、殿様の失点情報を収集、分析加工し手当たり次第辺りにばら撤く「プロパガンダ」でした。 人間世界にとって数百年の歴史を経ても武士の情け」どころか「勝てば官軍」とばかり「禁じ手」を平気で使う手口は相も変わらずですね。あなたは息子の失敗の肩代わりをしたお陰で無理矢理「殿様を廃嫡」され、さそ悔しい思いをしていると存じます。
それも顎で使ってきたたたき上げ番頭が後釜とは心中穏かであろうはずはありません。しかし、よくよく考えてください。もし 6 年前、何事もなく息子を社長にしていたら今頃「バカ殿」になってお家騒動を引き起していたかもしれませんよ。
「左団扇」で過ごせる資産もあることだし、この際、きっばりと「経営と資本」を切り分け大所高所から「家業」の行く末を見守った方が世のため人のためになると思うのですが。