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南出健一の経営放談6
『なぜ捨てられない? 社長業という権力の座』

(2005年5月号)

Q.
 私は 15 年前、破綻寸前の大手商社をスピンアウトして食品輸入商社を立ち上げ、どうにか軌道に乗せ、物心両面でわずかな余裕が持てるようになりました。
 その気の緩みなのか最近、何をやっても虚しい思いに駆られることがあります。 役員会でも中期経営計画の審議の最中「 5 年先までやるつもりはない」と口を滑らし、あとから同期の専務に諌められる始末です。その折、彼に「次は君が社長をやれ」といったところ、「あなたが引退するときは私も辞める時です」と真顔で言われてしまいました。
 意欲が萎えたら直ぐ経営者を辞めるべきとは承知しながらも、この半生、仕事だけを生き甲斐にしてきたから心底未練がないかといえば嘘になります。
 もっとも引退するにしても銀行借入保証として私の自宅か担保に入っているため、その肩代わりができる後継者を探さなければなりません。そこまで考えると簡単にバトンタッチができないのが中小企業経営者の定めなのかと考え込んでしまいます。

A.
 あなたの世代といえばこの国の勢いが「昇り竜」のころ、その先兵として会社人間に徹してきた方々です。 さぞかし、あなたもサラリーマン時代「滅私奉公」に励んできただろうことは容易に想像できます。
 この埋没度が深いエリートほど時として「何のために働いてきたのか?」という素朴な空虚感に襲われることが多いようです。 そして、答えが出せないことを承知しながら「俺から仕事を取ったら何が残るだろう」と突き詰めてしまいます。
 我々は共通して如何ほどの思い悩みがあっても「仏教的な無常観」からなのか、大方の結論は[ま、いいか・・・」で終わってしまいます。 つまり自分の生き方や存在感に疑問を持っても「流れ」に逆らえず時間の経過を耐え忍び、いつしか成り行きに身を任せる「術」だけが身についてしまうのです。
 とはいえ、あなたは事業家として立派に一家を成しているだけに自立したくてジリジリしているサラリーマンから見れば、ぜいたくな悩みだといわれそうですね。
 さて、今回はナンバー 2 に代表権を手渡したものの、「社長業」への未練を断ちがたく、再び「元の鞘」に収まろうと苦心惨たんした元経営者をご紹介しましょう。
  S 氏は 20 年問、精密機器関連の技術開発一筋の研究者でした。ところが勤務先のリストラに遭い、 1997 年に研究課題と部下を居抜きで引き取りべンチャー企業 W 社を起こします。
  当初、開発に没頭するつもりでしたが、運転資金や営業活動に振り回され身も心もへトへトになる日々が続いたのです。いつしか「純粋培養」の S 氏は迫い回される「経営者の立場」から 1 日も早く足を洗いたいとそればかり考えるようになってきました。

常務に社長の座を譲ったが …

 創業から 5 年、 W 社も米国との技術委託契約を境に一定収入を得られるようになり資金繰りにも多少の余裕が出るようになりました。
 S 氏は早速、苦楽をともにした常務に社長を譲り自分は一研究者に戻ることを宣言しました。 新社長の元常務は現実的で目端の効く男でしたから自分の意思に沿わない社員の整理を始めようとします。 何事も相談のうえ、意思決定する約束で代表権を渡したにもかかわらず S 氏を無視する新社長の独断専行に心中穏やかであろうはずもありません。 それに社長交代した途端、社員のよそよそしい態度には怒り心頭に発しました。
 彼は「社長を下りるとこんなに惨めになるのか」と、現実の世の冷たさを身に沁みて知ることになります。 退任からほどなく S 氏は友人の弁護士を訪ね、新社長を途中解任できないものかと相談します。もう彼の頭には怨念ともいえる「新社長追い出し策」がこびり付いているだけでした。
 そんな動きを知った新社長は、現役の強みをフルに発揮し内外に向けて防御体制を整えたのです。ここまでねじれると両者とも激した感情の矛先をどこに納めるのか見当さえ着かなくなってきます。遂に、 IPO (新規株式公開)を期待していた出資者たちが仲介に入り、けんか両成敗ならぬ S 氏を退散させることで決着をつけたのです。
 本来なら工場の片隅で開発に没頭することを望んだ研究者 S 氏も、例外なく「社長」という権力の座に、未練を断ちがたかったといえます。 資金繰りや人の問題に追い回される日々の社長時代よりも、疎外されていく己の惨めさのほうが、はるかに耐え難い苦痛だったのです。大株主であり創業者の自分をないがしろにする新社長への怒りは社内抗争を仕掛けずには収まらなかったのでしょう。

「俺は生涯現役だ」と胸を張れ

 男とは因果な生き物です。大義名分さえあれば負けると判っていても、本能的に闘いを挑むものなのです。
 「負けるけんかはするな」というのが世渡りの鉄則とはいえ、繰り返される歴史の必然性から見れば一目瞭然です。例えば、織田信長を本能寺で襲った明智光秀は「天下を獲る」野心などみじんもありませんでした。 彼は比叡山の坊主や石山本願寺の一向一揆門徒を皆殺しにしながら自ら「大明神」になることを渇望した信長こそ、「神をも冒とくする」許し難い男だったはずです。
 あなたのいう「何をやっても虚しい思い・・・」とは「男の闘争本能が萎えた」ということす。 だからといって、スーと消え去るような人生を送りたいのですか。この際、人様から何と思われようが「俺は生涯現役だ」と胸を張ってください。そのほうが略好いいじゃありませんか。

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