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中小企業応援隊・失敗を乗り越えて 第5回
『大企業に翻弄され身も心もボロボロに』

(2004年10月号)

 中小企業の景況は「まだら模様」ながら繁忙を極めている業種も見かけるようになりました。とはいえ、大企業による地方事業所整理統合の煽(あお)りを受けた下請け企業は相変わらず「青息吐息」なのが何とも気掛かりなことです。
 つい、この間までリストラで躍起になっていた大企業が手の平を返したように人材補充をはじめました。業種によっては「人手不足現象」が起こっているとか、「当社はグローバルな産業だから激しい動きをするのは当り前」と踏ん反り返っているようですが、どこまで先を読み取ったリストラ実行計画だったのでしょうか。
 「親企業が撤退する以上、当社も縮小せざるを得ない」。S氏は客先の動向を確認するや、何はさておき工場にという思いに駆られました。東北新幹線の車中、実直な社員の一人ひとりの顔を思い浮かべ、「語るべき言葉」のあまりの少なさに苛立ちと焦りを覚えたのです。
 操業から17年、いつの間にか町の主力企業となり、S氏も有力者の筆頭として地域に貢献してきました。最近、町おこしの「物産展」を横浜に仕掛けたのも、「NPO地域活性化センター」を立ち上げたのもS氏でした。
 彼は人の痛みを知り、人のために尽くす「奇特な経営者」として地元新聞で大きく取り上げられ、褒めたたえられたのです。それが「今さら、どの面をしてリストラ宣言すればいいのか」と自問自答しました。
 E社は総合電機メーカーが各地に事業部を展開した一時期、ご多分に漏れず東北地方の名も知れぬ町で工場を立ち上げました。親企業の地方展開は矢継ぎ早に進み5年もしないうちに2カ所目の工場を稼働させたのです。創業社長であり一度は事業の失敗経験もあるS氏にとって資金繰りや人材払底に危惧の念を持っていました。
 しかしその後、あれよあれよという間に4カ所の専属工場群と500人の社員を擁する「大企業」になってしまいました。確かに見かけだけは大きくなりましたが、中身は「下請け」であり、納期と値下げに追い回され、決算も設備減価償却後にわずかな利益が出せるだけだったようです。

300人削減を関係機関に通告

 S氏は4カ所に分散した工場で日常化した不良や納期遅れに翻弄(ほんろう)され続けます。その対応策として親企業の強力な指導下でWAN(広域ネットワーク)による情報システム統合化を1億数千万円で構築したのですが、工場間の連携システムは目に見えるほどの効果は上りませんでした。
 S氏は工場責任者に「E社の幹部として経営全体を見ろ」と口酸っぱく言い含めてきました。しかし、地域間のわだかまりは想像以上で一体感を醸成できないまま時は過ぎてしまったのです。
 1999年を境に始まった総合電機メーカーの地方事業部統廃合もIT産業が活況を呈したせいで一時的に沙汰やみになったかに見えました。それも束の間、「ITバブル崩壊」とともに各社口裏を合わせるかのように一斉に撤退を再開します。  E社にとって「親企業」に引きずられたとはいえ、泥沼の中で身動きできない状況に追い込まれることになります。S氏は4カ所の工場を訪れ「工場を1つに集約する。E社として皆さんには出来るだけの支援をする」とは言ったものの、具体的な提示は何ひとつ出来ませんでした。その足で町役場に出向いて、「刀折れ矢尽きた」現状を説明しましたが、町長や収入役の口を衝いて出たのは「そんなバカな!S社長の会社がおかしくなるはずはない」。
 S氏は資金繰りが支障を来たすのを目の当たりにして「背に腹は換えられない」と意を決します。行政からの理解を待ってはいられません、300人削減を関係機関に通告した途端、県の役人まで飛んできました。まず、4工場の情報システム課の解体と大半の要員解雇を言い渡したのです。彼は「つぶれかかった企業に情報システムは無用の長物」と考えたのでしょうか。ただ、200万円/月のリース代だけは棚上げできず、集約した工場の片隅で受発注システムだけを稼働させました。

売り上げはピーク時の1/3に

 2003年、E社の2年にわたる「大リストラ」は最終段階まで漕ぎつけました。売り上げはピーク時の1/3になりましたが、一定の利益は確保出来るまでになったのです。確かにE社は「再生」したものの、この間、S氏は「針のむしろ」に座らされました。
 幹部を前に「君たちの手でIT(情報技術)の再構築を含めて体制を立て直してくれ」と涙ながらに詫びたのです。そして、「解雇した300人に会って謝罪したい」と言い残しE社を去って行きました。
 大手電機メーカーが先を競うように地方展開した時代に中小企業の下請け衛星工場群が周辺を取り巻くように進出しました。その頃から東北の人々も表向きの「豊さ」を享受できるようになったといわれています。確かに地方都市は活気づき、街の様子も一変し大都市圏との差異は解消されたかのようにも見えたものです。
 しかし、ここ数年「産業のグローバル化」という名の下に、猫も杓子(しゃくし)も地方事業部を撤収し「中国へ、中国へ」となびいて行きました。なかには本社機能すら香港や上海に移した企業もあったのです。その後に残されたのは「ぺんぺん草」ならぬ幹線沿いの「がらんどう工場」と行政が空念仏のように唱える「地域再生化」のうたい文句だけでした。
 それにしても、大企業の身勝手さには辟易(へきえき)とします。昨年末ごろから景気が上向き始めた途端、人員整理したばかりの地方事業部で「人材募集」を始めるではありませんか。
 経営者の皆さん、彼らの地方展開といい中国進出といい、「サラリーマン集団」の無責任体制から醸し出される「戦略もどき」の「ツケ」を背負わされることはありません。S氏は「一緒に地方へ来い。面倒は見てやる」と言われ、恐る恐る後について行った結果、身も心もボロボロになったのです。これも「自己責任」かもしれませんが、「わが道を行く」ことでその責任を問われるのであれ得心できます。

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