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中小企業応援隊・失敗の学舎 第6回
『大金で狂った経営者、上場急ぎIT導入で躓く』
(2003年11月号)
リストラの名を借りた人員整理だけで「業績回復」を繕ろう企業が後を絶ちません。事業そのものを根本的に見直さなければ、たちまち「元の木阿弥」になってしまうのは極々当り前のことです。目先の決算対策にきゅうきゅうとして、あたら人材を切り捨てるとはいかがなものでしょうか。
Y社は薄型モーターの開発で、米国企業から「情報産業の将来を支える機能部品」として評価されていました。それをキッカケに国内機関投資家やメディアから「蝶よ花よ」ともてはやされ、ジャスダックへの上場に漕ぎつけました。
大手電機メーカーからスピンアウトして15年、技術屋社長A氏にとって一番の悩みは開発資金の調達でした。信用保証協会や銀行などから、猫の額ほどの自宅を担保に数千万円の融資を受けるのが精々で、あとは親戚縁者から何がしかの資金を支援してもらいながら「その場しのぎ」の自転車操業を続けてきたのです。
たまたま、だぶついた資金の振り分け先を探していた大手証券系のベンチャーキャピタルが、米国の業界紙に取り上げられたY社の記事に目を付けたことから急転直下、数十億円の資金調達話に発展しました。技術一筋のA氏をして、「信じ難い夢の世界に引きずり込まれた」とは無理からぬことです。
この一件がオウム返しで国内の情報誌に掲載されてからというもの、30社を下らない機関投資家や一般の事業会社から投資案件が次々と持ち込まれるに及んで、A氏も「眉唾どころか、これは本物だ!」と胸ときめかせたとは後日談です。
幹事会社も決まりA氏は彼らの指導の下、絵空事のような5年先までの「事業計画書」で20億円も調達したのです。ただし、投資家からは「遅くとも3年先には上場してくれ」という強い要望が出ました。
次いで欧米系の公認会計事務所と顧問契約を交わし財務監査を受けたところ、上場の必須条件であるIR(投資家向け広報)のために「業務情報システムの構築と管理部門の強化が重要課題だ」と指摘されたのです。つい半年前には考えられない事態に直面したY社は、何から手を着けていいのやら混乱の際に置かれていました。とても情報システムに着手するどころではなく、A氏は会計事務所提案のシステム仕様書のままチェックもなしに開発を「丸投げ」してしまったのです。
1998年、売上高40億円になったY社は1年前倒しでジャスダックへの上場を果しました。A氏は証券取引所から認定書を手渡された時、艱難辛苦(かんなんしんく)の15年が走馬灯のようによみがえり、こみ上げる涙は止めようもなかったといいます。
財務に偏った情報システム
さて、「主人公不在」の財務に偏った情報システムは稼働したものの、日常業務を支える泥臭い機能はほとんど削ぎ落とされていました。
そのうえ、売上高も社員数も倍増し、仕事の内容も複雑化してきました。とても「会計事務所製システム」では対応できるものではなかったようです。結局、最初から開発するほどのカスタマイズ費用をかけなければならない羽目になりました。それでもA氏はさして気にも留めず、会計事務所の言うがままに無駄金を投じてしまいました。また、IT(情報技術)人材を補強するため大手システム会社でも折り紙つきのSE(システムエンジニア)2人を取締役待遇でスカウトしました。
「人間、喉もと過ぎれば熱さを忘れる」とはよく言ったものです。上場の結果、人・金が大した苦もなく手に入ることに味を占めたのか、すっかり有頂天になったA氏は周囲がハラハラするような投資を繰り返すことになるのです。
しかし、「おごる平家久しからず」。A氏の「うたかたの夢」は、わずか2年で終焉を迎えることになります。その極みは過剰投資と私募債の償還時期が重なり手元資金が枯渇してしまいました。当然のような業績悪化で株価は暴落し、株主からの厳しい指弾が相次ぎました。慌てふためいたA氏は即効性のある人員整理だけが頭の中を駆け巡ったようです。顧問にした会計事務所と相談したうえ、情報システム部も含めた「金を稼がない部門」を整理することになりました。
100人の解雇通知には苦楽をともにした生え抜き社員や取締役待遇でスカウトしたSEもいました。その肩代わりとしてシステム規模を縮小のうえ、会計事務所にアウトソーシングすることにしたのです。何んのことはない「濡れ手に粟」を手にしたのは当の会計事務所だったわけです。
A氏は「哀れな成り上り者」だったのです。メディアから「ベンチャーの花形」ともてはやされ、会計事務所の口車に乗せられ、情報システムを経営に生かすどころか上場のための手段にしたわけです。
「投資家の信」を得るべきだった
株価対策で追い詰められると情報システム要員のリストラだけしか思い付かないとはあきれます。人間、持ちなれない大金を手にするとここまで狂ってしまうものなのでしょうか。その後、A氏は株主代表訴訟のあげくに代表権を召し上げられて、追放の憂き目に遭ったのです。
「成功は失敗の始まり」とは世の歴史が証明するところですが、成功を維持し続けるのは非常に難しいことです。江戸末期、加賀藩で繰り広げられた政争に巻きこまれた「悲劇の商人」銭屋五兵衛が残した家訓の中に、「世人の信を受くべし」という一文があります。事業を継続発展させるため、銭屋の子々孫々に「自らを律せよ」と説き続けました。商人=経営者とは人々の信を得るためには、おのれを犠牲にしても守るべき「商いの道」を説いたともいわれています。
A氏は手元に大金が転がり込んできた時、「俺は株主の信頼を得られるのか」を反芻しなければならなかったのです。そして「世人の信を受くべし」とは、いささかの疑念がつきまとうのであれば自ら「経営者」の座から退く勇気を持てとも言っているのです。「身を捨ててこそ浮かぶ世もあれ」とは古今東西共通した教訓です。が、「言うは易し行うは難し」かもしれませんね。