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中小企業応援隊・南出塾 第11回
『65歳、ゼロからの再起を期す』

(2003年5月号)

 最近、各メディアで中小企業経営者を叱咤激励するかのようなドキュメント番組が放映されています。しかし、そこに登場する経営者が「金太郎飴」のようにいつも同じだという点が少々気掛かりです。
 確かに、誰もまねできない得意技で大変な業績を上げているのですから、スポットライトを浴びて当然です。ですが、独自性にあふれ、はつらつとした経営者が「日替わりメニュー」のように次から次に登場してこそ、「俺もやるぞ!」という意欲がわいてくるというものです。
 それにしても、1日も早く「頑張れ!中小企業」とハッパをかけられなくて済む時代にしたいものですね。

急成長の落とし穴

 さて、今回は、運転資金がわずかに不足したために、手塩にかけた企業の持ち株すべてを二束三文で取り上げられた悲劇の経営者が登場します。しかし彼は、不屈の闘志を燃えたぎらせて再びゼロから新規事業を立ち上げたのです。
 O氏は40年前、自動車解体業から身を起こし、その資金を元手に自動車・船舶用特殊部品の開発販売を始め、全国に知る人ぞ知るS社を立ち上げた「立志伝中の人」でした。1980年代には日本各地に支店を構え、米国西海岸にも現地法人を作ったほどの勢いだったのです。
 勢いに乗っているときは何をやっても、打つ手の1つひとつが寸分の狂いもなく的中するものです。開発した製品が次々にヒットし、販売代理店の希望者が門前列をなすほどの売り手市場になりました。
 職人肌のO氏が製品開発にかける情熱は凄まじいものですが、経営者としてのマネジメント力にはやや欠けるところがあったように思います。本人も重々承知していたようで、事業が拡大するにつれて「やり手の人材」を破格の待遇でスカウトし、思い切って権限を任せました。

スカウト人材に経営お任せ

 しかし、「好事魔多し」。「業績拡大に合わせて全社のIT(情報技術)化を」というやり手の幹部の一言で、中小企業ではとても手に負えそうにない大型情報ネットワークシステムの導入に踏み切ってしまったのです。加えて、システム運用のために5人ものIT専門家を集め、大企業さながらの組織を編成しました。
 これを境に、S社の屋台骨は音を立てて崩れ始めたのです。まず、スカウト人材が次第に社内で実権を握る一方で、O氏と苦楽を共にしてきた社員の大半が退社を余儀なくされました。急速すぎる事業拡大の歪みは、資金繰りさえままならぬところまでS社を追い込んだのです。
 経営のほとんどをスカウト人材に任せ切っていたO氏が、急変する事態に気づいたときには、もはや口を挟むことさえできない状況に陥っていました。このとき、彼はオーナー経営者でありながら全く無力な存在になっていたのです。
 65歳のO氏は、我が子のように愛しんできたS社を「石もて追われる」かのように無一文のまま去って行ったのです。自分がまいた種とはいえ、S社への惜別の念は断ち難いものだったでしょう。
 後日、O氏は「あれよあれよという間に会社が大きくなり、気がついたときには私の手に負えない化け物になっていた」と本音を吐露していました。

叩き上げ根性を忘れない

 そのO氏が何と、再び舞台に登場してきたのです。老いたりといえども、彼の命綱ともいうべき「叩き上げ根性」だけは失っていなかったのです。
 あの悪夢から半年後、多摩川べりの倉庫の片隅で、2人の仲間と再起の狼煙(のろし)を上げました。O氏がS社を追われた事情を知った米国の友人が、かつてO氏と共同開発した製品の独占販売権を無条件で譲渡してくれたのです。ほかにも彼を支えようとする人々が三々五々集まり始めています。
 創業社長が追い詰められたとき、必ずといっていいほど「俺はこの会社をゼロから立ち上げたのだ!」と自らに言い聞かせるものです。そして、すべての未練から決別するためにも、「原点に戻っただけだ」と自分自身を納得させ、ほんのわずかな精神的安どを求めようとするのです。
 O氏もまた、ゼロからの再出発を覚悟するまで、逃げ場のない孤独感にさいなまれながら、現実から逃避したいという思いに幾度となく駆られたはずです。この苦しみを乗り越え、再起した経営者は極めて少ないのです。
 物静かなO氏が65歳にして再び立ち上がれたのは、モノづくりへの果てしない執着心と、彼が精一杯生き抜いた40年の歴史を認める多くの人々の支えがあったからでしょう。
 「今度こそ、小さな商店で楽しい仕事だけをやりますよ」。吹っ切れたように話すO氏の一言が、今も脳裏に焼き付いています。

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