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中小企業応援隊・南出塾 第9回
『ときには臆病になれ』

(2003年3月号)

 久しぶりで上海に行ってきました。浦東新区の高層ビルや周辺の様変わりには驚きました。さらに、郊外ののどかな田園風景のなかにこつ然と現われる大工業団地は、まさに日本の30〜40年前をほうふつとさせます。
 貧しさから豊かさへのプロセスは常に「破壊」と「建設」で成り立っているとは承知しつつも、「繰り返される歴史の愚」を改めて痛感せずにはいられませんでした。水は高きから低きに流れるように、私たちが50数年間享受してきた「豊かさの源泉」が、玉石混交のまま中国やアジアに引き継がれていくのは自然の成り行きだと割り切るべきなのでしょうか。
 そのなかにあって、親企業や取引先の海外展開により、やむにやまれず中国やアジアに進出した中小企業の行く末を考えずにはいられません。

中国進出で痛い目に

 1980年代、日本の製造業は安い賃金に魅せられ、アジアに大挙して進出しました。そのなかには、現地の共同経営者との感情的なもつれから無残な撤退を余儀なくされたり、社員の意図的なストライキに巻き込まれて廃業するなど、数多くの悲劇があったのです。
 にもかかわらず、いまだに同じ轍を踏む日系企業が後を絶たないのはどうしたことでしょうか。最近、中国の大学との共同経営に携わった中堅の情報システム開発企業もそうでした。資金を一方的に供出させられ、ついに撤退のやむなきに至ったのです。
 S社のH社長は、中国の有名大学の学長が来日した際、知人を介して紹介され、すぐに肝胆合い照らす仲になりました。
 「ぜひ、貴社の優れたシステム開発技術を我々の学生に学ばせ、産学協同の実を上げたい」――。元来、学者という名にめっぽう弱いH氏は、たちまち彼の術中にはまったのです。
 生真面目なH氏は、会社設立理念と入念な事業戦略企画書を手に、十数回におよぶ大学訪問を繰り返しました。学長をはじめとする幹部の徹底した「熱烈歓迎」に、すっかり有頂天になっていましたが、具体的なお金の話になるに従って雰囲気がおかしくなってきたのです。
 「政府にかけ合っているが、会社を設立する資金はすぐには調達できない。とりあえずS社の全額出資でお願いしたい」。いつの間にか「大学は現物出資」にすり替えられたのです。H氏は、この時点になっても、「身銭を切れば済む程度。それよりも有名大学とのジョイントのほうが大切」と考えていました。

日系企業は「金のなる木」?

 何はともあれ、学内では初めてという「産学協同会社」を設立。披露パーティーには500人を招待し、地元テレビ局の取材まで受けました。テレビに出たことのないH氏にとってはこのうえない名誉であり、今までの苦労を一瞬にして吹き飛ばすほどの感激でした。
 立ち上げから2年。H氏は日本本社の仕事を番頭にほぼ任せ、年に数カ月は現地に張り付きました。経営指導をはじめ、日系企業への営業活動まで支援したのです。当然、S社からも開発案件を発注しました。
 ところが、いくら教えても業務システム仕様書の“行間”を読めなかったり、勝手な解釈をしたりで、ほとんどビジネスにはならなかったといいます。
 現地の幹部社員からは、最先端の開発機器や運転資金を絶え間なく要求されました。H氏は彼らにとって「金のなる木」だったのでしょう。あっという間に、数億円を越える資金を注ぎ込んでいました。そして、ある年の暮れ、H氏は大学内にあるオフィスから去る決意をしたのです。

グローバル化しないもの

 親企業のアジア展開に、否応なくついて行かなければならない中小企業は今後も増えることでしょう。でなければ国内の仕事は根こそぎ失いかねない状況に置かれているからです。それは自社の命運を賭けての海外進出であり、絶対に失敗は許されないのです。
 ところが、私たちはときとして、日本語をしゃべる外国人はすべからく日本を理解してくれるものと早合点する傾向があります。そのためでしょうか、めまぐるしく変わる法律や規制、現地パートナーとの付き合い方など、つい「日本の常識」で判断してしまうところに大きな落し穴があるのではないかと思います。
 私の友人は中国に進出して十数年、まさに「松のことは松に習え」を地で行くように、得難い経験を積み重ねて着実に実績を築いてきました。彼は、「私は臆病だから『臆病な行動』をとります。得心できるまで、自分の目と足で1つひとつ確かめながら結論を出します」と言っています。
 業種を問わず、この一言は、アジア進出を目論む人々に限りなく多くの示唆を与えるものではないでしょうか。

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