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中小企業応援隊・南出塾 第4回
『成功のなかにこそ失敗を学ぶ』
(2002年10月号)
最近、欧米やアジアの各国で、日本の「食」をはじめ「マンガや茶髪」といった文化までもがもてはやされているそうです。10数年たってもバブル崩壊の蛸つぼから抜け出せない政治・経済に、私たち日本人が何の期待も持てなくなったころ、なぜか外国から日本を再評価する動きが登場してきたのは、いかにも皮肉なことです。
「ひがみ根性」だと言われるかもしれませんが、世界第2位の経済大国が衰退の一途をたどる様を見て、「再生への可能性がなくなったのであれば、経済とは別の道で生きていくことを考えなさい」と示唆されているような気がしてなりません。
「覆水盆に帰らず」とは考えたくありませんが、これほど延々と失敗を繰り返していると、夢を託せるものが極めて少なくなっていることだけは肌身で感じ取れます。
さて、栄枯盛衰は世の常。「失敗から成功の秘けつを学べ」と言われますが、どうも「成功のなかに失敗を学ぶ」という切り口が置き去りにされているように思えてなりません。
IT(情報技術)活用においても、失敗事例から学び取ろうという姿勢は大切ですが、もう一歩踏み込んでみたとき、成功事例のなかに多くの失敗の芽が隠されていることを認識しておくべきでしょう。これからご紹介するのは、「成功という名のもとに失敗の芽を放置し、最終的に成功の果実をかじり損ねた」という事例です。
自動車部品メーカーのD社は、現社長のC氏が生産担当役員だった数年前、「間接工数の削減」を目標に掲げて思い切ったIT投資に踏み切りました。
華やかな成功の陰に失敗の芽が
現場を知り尽くしたC氏が徹底した分析を繰り返し、数ある自社の課題を1点に絞り込んでいったところはさすがでした。ただ、自信家のC氏はD社の他の幹部をすべからく「役立たず」と見ていましたから、自分に忠実な2〜3人の若手だけをプロジェクトメンバーに指名して、システム構築に入ったのです。
他の経営陣は、C氏の獅子奮迅の働きに目からうろこが落ちる思いがしたことでしょう。極めつけは、「e-カンバン方式」を基幹システムの中核に据えたことでした。
今までは生産管理の担当者が在庫の所在を追いかけ回していました。しかし、新方式により、カンバンの動きでボトルネック工程が一目瞭然になりましたから、その効果は計り知れません。
C氏の挑戦は「中小企業のIT化成功事例」として専門誌や経済紙に取り上げられ、業績も年率20%増という飛躍的な伸びを示しました。
そしてC氏は「向かうところ敵なし」の実力が認められ、オーナー一族以外から初めてD社の社長になったのです。
ところが、この成功は長続きしませんでした。彼が生み出した情報システムを部下の手に委ねてからというもの、D社のシステム進化はピタリと止まったのです。
C氏個人の圧倒的な力で成功させたシステムは、「羊のように従順な部下」に引き継がれました。彼らは何一つとして新しいことに手を染めようとせず、現状を維持する「堂守り」に徹したのです。
一方、社長に就任したC氏も、以前のIT化成功体験だけではいかんともし難い局面に、しばしば直面していました。「ITをより進化させる」どころか、経営者としての資質さえ疑いたくなるほどの混乱ぶりだったそうです。
わずか数年前、D社の先進的なIT構築は成功の見本であるかのように各界からもてはやされましたが、いまやその面影はどこを探しても見当たりません。
自らの成功体験を疑え
いったんは成功したかに見えたこのシステムには、実は失敗の芽が隠れており、C氏はそれを放置してしまったのです。失敗の芽とは、C氏があまりに優秀だったがゆえに、後を継ぐべき人材の育成を怠ったことです。
後進が育たなければ、成功も単なる「線香花火」に終わってしまうのです。「生む」より「育てる」ことがどれほど大切であるかを示すと同時に、「継承への執念」と「成功への疑念」を持ち続けない限り、新たな価値は生み出せないことを証明したケースと言えます。
歴史上、大は国家から小は企業に至るまで、失敗はあまたあります。日本は確かに過去の失敗に学びました。アメリカという保護者の下で、わずか四半世紀の間に見事に国家再生を果たし、「世界の成功者」になったのですから。
しかし、その代償として「成功のなかに失敗を学ぶ」ことはできませんでした。
我々は「万年勝者」のおごりともいうべきものに毒され、過ちに気づくのがあまりに遅すぎました。人間がこの世に生き続ける限り、成功の次には失敗があるという輪廻を決して忘れてはならないでしょう。そして、「過ちを最小限で食い止めること」を学ぶべきなのです。