一覧に戻る
中小企業応援隊・南出塾 第2回
『町工場の強さを失うな』
(2002年8月号)
最近、「グローバルとローカル」の問題が頭から離れません。いわゆるグローバル化がもたらす画一化や標準化が本当に正しいのか、地域や企業が持つ個性をもっと尊重すべきではないだろうかということです。企業のIT(情報技術)活用についても同じことが言えると思います。
典型的なのがERP(統合業務)パッケージの導入です。今や、第2次ERPブームと言われていますが、ERPはその性格上、業務の進め方やルールをできる限り「標準」に合わせることを求めます。
柔軟さこそ町工場の持ち味
標準化することのメリットを否定するつもりはありません。しかし、標準化という名の「呪縛」にとらわれてしまっては、日本企業の良さ、もっと言えば中小企業の強さのようなものが失われるのではないかと危ぐするのです。
中小企業の強さとは、何でしょうか。様々な制約条件を、たくましい英知と融通むげな柔軟性で乗り越え、問題を解決する生命力です。そこには、大企業も及ばないしたたかさがあります。
最近、東大阪市や東京・墨田区、大田区にある町工場が製造業復権への先駆けとしてクローズアップされています。その理由は、町工場の「おやじ」や「職人」たちが長年にわたって蓄えてきた「人と技のナレッジ・データベース」をもって、際立って優れたモノ作りをしているからです。
彼らは仲間同士のコラボレーション(協業)によって支え合いながらも、自分なりの仕事の段取りやこだわりは捨てていません。大企業ではとても手を出せない「業物(わざもの)」を作り上げています。画一化や標準化という言葉とは別世界なのです。
安易なERP導入は、この強さを手放すことにならないでしょうか。
ERPの理想と現実のはざま
特に、理想に燃える頭でっかちな経営者ほどやっかいな存在はありません。自社の実力もお構いなしに強引にERPを導入し、多くの関係者を犠牲にした自動車部品メーカーの2代目サラリーマン社長M氏は、その典型といえるでしょう。
理論家であるM氏が不安に駆られたきっかけは、度重なる得意先からの値下げ要求でした。国内の各工場が上げてくる対策は生ぬるく、M社長にとってはまるで「靴の上から足をかく」ようなものだったのです。
彼は社長室にいながらにして各工場の動きをつぶさに掌握することを夢見たようですが、その解決策の糸口をERP導入に求めたことからボタンの掛け違いが始まりました。
M社長自ら主催したシステム導入説明会に経営幹部全員を参加させ、その不甲斐なさを酷評したのです。「当社は町工場が単に大きくなっただけだ!」。
M氏が志向したのは「町工場の否定」であり、「大企業へのあこがれ」だったのです。2年後、このプロジェクトは当然のように失敗しました。そこに残されたものは、導入の全責任を負わされた情報システム部の責任者たちの累々たる「しかばね」でした。M氏は今日も何食わぬ顔で社長室にふんぞり返っていることでしょう。
企業文化は一夜にして変わらない
標準化の名の下に全社一斉にERPを導入し、その処理手順に従うことが本当のグローバル化なのでしょうか。
共有すべき情報をやり取りするためのインフラやルールを、できるだけ標準化するのは当然です。その意味で、ERPの導入は間違いではありません。しかし、国内生産は否応なく変種変量・小ロット化の方向に進んでいきます。そこには想像を絶するような膨大な情報が押し寄せてくるでしょう。
そのとき、紋切り型の情報システムでは身動きできなくなりませんか。「変化への即応」とは工場の持つそれぞれの特性を見極め、その持てる力をフルに生かすことであり、けっして「あしきローカル」として切り捨てることではないと思います。
「こうすればいい」という確かな解決策は見えません。ただ、グローバル化とはローカルの存在を認めてこそ、素晴らしい効果をもたらすと思うのです。
それにしてもM氏は、欧米型ERPを導入すれば一夜にして企業文化を変えられるとでも思ったのでしょうか。ちなみに、自ら決定したERPの導入が難航している間、彼は1度たりとも矢面に立とうとはしませんでした。
企業経営者のなかに、こうした無責任さがまん延していることに驚きます。大規模なシステムトラブルを起こしながら、頭取が「実害はどなたにもおかけしておりません」と大見得を切った大銀行がありました。自ら意思決定しておきながら、「火の粉」が我が身に降りかかってきた途端に責任回避に走るとは、「役人の世界」と同じです。こうした無責任官僚主義が横行するのは、国そのものが末期的状況にあるからかもしれません。