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シリコンバレーに学ぶ中小企業の生きる道 第3回
『日本を避ける海外のIT技術者たち』

(2001年3月号)

 ご存知のように、日本のIT(情報技術)化の遅れを取り戻す決め手は、国籍を問わず、質の高い技術者をいかに確保するかということです。
 ところが、世界各国でIT関連技術者の争奪戦が繰り広げられるなか、本来なら血眼になって人材を探し回るべきなのに、この国独特の商習慣が逆に優秀な技術者を閉め出してしまう――。実は、そんなことが私たちの周りで日常的に行われているのです。
 システム開発をシステム・ベンダーに頼らざるを得ない中小企業にとって、IT関連技術者の人材不足による影響は計り知れないものがあります。その結果、技術者の質・量は言うに及ばず、システム開発費にいたるまで、私たちは大きなハンデを背負い続けなければならないのです。「5年後にIT大国になる」ことなど夢のまた夢かもしれません。

日本進出を夢見た米技術者の悲劇

 「2度と日本でビジネスはしないでしょう。もちろん、いい思い出もありましたが」――。2000年10月、カリフォルニア州サニーベール市にあるD社のオフィスを訪れたときのことです。1年ぶりで再会したP氏の口からは挨拶もそこそこに、日本オフィスの閉鎖について恨み節とも聞こえる言葉が衝いて出ました。その瞬間、我々は何ともいえない重苦しい雰囲気に包まれてしまいました。
 P氏にそこまで言わせる事情とは、いったい何だったのでしょう。
 95年、インド系のP氏たち3人が共同で設立したD社は、カスタム・メイドの半導体設計とそのテスト・プログラムの製作を受託する企業です。米航空宇宙局(NASA)で働いていたP氏たちの技術力は確かで、D社は年率20〜30%もの成長を続けていました。米国の中堅中小企業は知名度や企業規模に惑わされず、たとえ名前の売れていない小さなシステム会社であろうとも、確かな技術を持っていれば積極的に活用しているのです。
 98年、私が最初に訪問したときには社員15人のこじんまりした企業でしたが、彼ら全員が数学の博士号を持つという精鋭ぞろいでした。P氏自身、宇宙産業の高度な情報システム開発の実績を持ち、この関連産業の中では相当認められた存在でした。
 ただし競争相手も多く、事業拡大のための資金調達は思うに任せなかったようです。後にP氏に日本に対する不信感を植えつけることになる事件は、そんな時期に起きました。
 D社の取引先の1つに、日本の大手電機メーカーのシリコンバレー支社がありました。ある日、その役員から「日本に法人を作れば、本社からの出資が可能だろう」という話が持ちかけられました。その言葉を信じたP氏は早速、知り合いの日本人たちの助力を得て「日本進出戦略」を立てたのです。
 99年1月、東京の品川で、D社の小さな日本法人が業務を開始しました。P氏以下3人が常駐。彼らにとって最大の難関である日本語を修得するため、週3回語学学校に通いました。
 オフィスを構えてから2カ月後、本格的な営業活動の開始です。出資が可能だと聞かされた大手電機メーカーに面会を申し込んだのです。しかし、返事は「いま、英語の分かる人間がいない」「担当は出張中」といった素気ないものでした。
 D社としては、1日たりとも無駄にできません。とりあえず、サニーベールの本社から仕事を回してもらうことにしたのです。ところが、ここで困った問題に直面しました。
 うかつといえば、うかつだったのですが入居したビルは20年前の古い建物で、通信回線を新たに設置しなければなりませんでした。P氏はアメリカの通信インフラを当り前のように考えていましたから、電話会社からの業務用回線の見積もりを見て驚きました。彼らが使っていた回線の半分の速度に満たず、料金は3倍にもなるのです。これでは大型案件に必要なデータをやり取りできません。事務所の経費がまかなえる程度の小さな案件を回してもらうのが精一杯でした。

確答避ける日本企業

 日本に来て6カ月が経ちました。待てど暮らせど、電機メーカーからの反応はありません。痺れを切らせたP氏は、オフィスからほど近いその会社を直接訪問したのです。対応してくれた開発部門の担当者はD社の日本進出の事情をよく承知していたようです。しかし、「いまのところすぐに依頼する仕事はないが、検討はしておく」という回答でした。
 次にP氏は、別の大手システム・ベンダーにも足を運びました。この企業のシリコンバレー現地法人の責任者からも、出資の言質を得ていたからです。しかし、「現地法人で何を言われたか知らないが、日本は日本のやり方がある」と、担当者の言葉は木で鼻をくくったようなものでした。
 彼は事前に、この国のことをもっと知るべきだったと大いに反省しました。世界第2位の経済大国でありながら、国際的な常識とはかけ離れたビジネス風土で、果たしてインド系の自分が生きていけるだろうか。出資をしてもらうどころか、仕事すらもらえないかもしれないという不安に駆られたのです。
 人が変わったように憔悴しきったP氏に私が出会ったのは、ちょうどそのころでした。懸命に習いたての日本語で自分たちの開発スキルを説明してくれました。
 その後、私のオフィスに4〜5回来てもらいましたが、あいにく彼らに合った仕事がなかったため、知り合いの大手システム・ベンダーに紹介したのです。案の定、検討する時間をくれということでしたが、1週間後に返事を催促をすると、やっと本音を吐いたのです。「インド人の会社とは仕事をしたことがない。前例がないから、取引はできない」。

優秀な技術者を閉め出す愚行

 つまり、問題はスキルがあるかどうかという以前のことだったのです。口では国際化やグローバル化の必要性をわめき散らしているのに、その一方で国籍を問題にして取引を拒む態度は、いったいどう説明すればいいのでしょうか。仕事ができるかどうかという大切なことをそっちのけで、「自分たちにとって慣れ親しんだ取引かどうか」で物事を判断する限り、日本には本当のオープン化など存在しようもありません。
 最近、日本の大物政治家がインドのバンガロールを訪れて何やらエールを送ってきたようですが、P氏のように空しい思いをした人々は2度と日本に足を向けることはないでしょう。彼らにとって自由に雄飛できる国々が、ほかにもたくさんあるのですから。そして、日本のIT技術者不足は永遠に解消しないのです。
 こんな状況が続くのであれば、中小企業の皆さんは積極的に海外に目を向け、IT技術者を自ら発掘するぐらいの気概を持つべきかも知れません。

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